○名誉市民

名誉市民章第1号(昭和42年9月25日議決)

田中たなか政春まさはる(/弘化4年11月4日生/明治34年3月11日没/)

明治22年市制施行と同時に初代市会議長に選ばれ、翌23年から明治34年、公務上京途中に智頭町で逝去されるまで、11年間にわたり2代目市長に就任された。

この間諸条例及び規則を制定し、明治25年鉄道敷設法が公布されると地域開発のため山陰線の敷設運動を強力に進め、その結果同33年境(現境港市)を起点に着手されることとなった。また明治29年には歩兵第40連隊を誘致されるなど多くの業績を挙げて今日の鳥取市発展の基盤づくりに貢献された。

名誉市民章第2号(昭和42年9月25日議決)

遠藤えんどうただす(/嘉永6年1月22日生/昭和20年1月22日没/)

明治8年広島高等師範学校卒業後、21歳で鳥取師範学校教師となられ多くの有能な人材を育成され、終身教育一筋に献身された。明治40年私立鳥取図書館(現県立鳥取図書館)を設立され、同41年には女子教育の必要性を考えられて私立鳥取女学校を創立された。また身障児に教育を与えるため明治43年全国に先駆けて私立盲学校を創立し、幾多の苦難を克服して現在の県立盲・ろう学校の礎を築かれるなど明治・大正・昭和の各年代にわたり鳥取市の学校教育、社会教育の向上に貢献された。

名誉市民章第3号(昭和42年9月25日議決)

由谷ゆたに義治よしはる(/明治21年3月16日生/昭和33年10月8日没/)

大正8年市会議員、同じく県会議員に当選して鳥取市・鳥取県の発展に尽される。更に大正13年衆議院議員に当選されるや長年にわたる市民の願望であった千代川改修運動に奔走し、帝国議会にこの建議案を提出してついに改修事業に着手させ、幾度となく洪水に襲われていた流域の農民や市民の人命・財産を救われた。

昭和22年には鳥取電機株式会社社長に就任して地元産業の育成に努めるとともに同31年には県教育委員に選任され教育の振興にも努められるなど鳥取市の発展に貢献された。

名誉市民章第4号(昭和42年9月25日議決)

三浦みうら百重ももしげ(/明治24年10月20日生/昭和47年2月29日没/)

大正7年九州帝国大学医科大学卒業後翌8年京都帝国大学医科大学助手に任命されてより教授・附属病院長と36年の長きにわたり大学教育に献身された。

昭和32年鳥取大学学長に就任され、在任中、分散・老朽化していた同大学各学部を統合整備し、内容の充実を図られた。その促進運動に当たっては日夜東奔西走して湖山池湖畔に統合校舎を移転新築し、あわせて工学部の新設、大学院の設置を実現させ、更に砂丘利用研究施設を拡充して地域の開発に尽力されるなど鳥取市の発展に貢献された。

名誉市民章第5号(昭和44年9月24日議決)

児嶋こじま幸吉こうきち(/安政4年11月1日生/昭和4年12月1日没/)

明治9年19歳で酒造業を開設、同21年因幡酒造組合を設立し、組合長として業界の指導に当たり、明治23年市会議員に当選して4期11年間市政に参画し、都市計画、発電計画案を作るなど市政の発展と経済の振興に尽力された。明治25年鳥取汽船会社を設立して阪神地方へ農産物の移出を行い、また鳥取ガス株式会社を設立して市民にガスを供給するなど各種会社を設立したほか、大正14年鳥取商業会議所を設立して初代会頭に就任するなどその進取積極な開拓精神により鳥取市の産業の発展に貢献された。

名誉市民章第6号(昭和44年9月24日議決)

米原よねはら章三しようぞう(/明治16年11月16日生/昭和42年10月19日没/)

大正12年県会議員となり、更に昭和7年から同21年まで貴族院議員として国政に参画された。実業界にあっては日ノ丸自動車株式会社をはじめ各種会社を設立し地方産業の振興に努め、また鳥取大火においては鳥取商工会議所会頭・県信用保証協会会長の要職にあって商工業者の復興に尽力された。更に県立女子師範学校の設置、高等農林学校の誘致、日本海新聞の創設、日本海テレビジョン放送株式会社の設立、鳥取大学の統合移転の促進など教育、文化の振興を図るなどあらゆる部門で鳥取市の発展に貢献された。

名誉市民章第7号(昭和49年9月26日議決)

はやし重浩しげひろ(/明治2年9月22日生/昭和19年5月15日没/)

明治28年から昭和8年まで39年間にわたり子弟の教育に努められた。この間明治39年には36歳の若さで県立第二中学校(現米子東高校)校長に就任し、同44年には鳥取中学校(現鳥取西高校)校長に就任し、山積する難問に対処して学校を再建するとともに野球部を創設してこれを奨励し、野球の名門鳥取中学の礎を築かれた。また大正11年鳥取第二中学校(現鳥取東高校)の創立と同時に校長に就任して同校の発展に尽力されるなど鳥取市の教育の振興に貢献された。

名誉市民章第8号(昭和49年9月26日議決)

吉田よしだ璋也しようや(/明治31年1月17日生/昭和47年9月13日没/)

大正10年新潟医学専門学校を卒業されるが在学中から文化運動に志し、昭和6年耳鼻科医院を開業する傍ら鳥取民芸会を設立し、各地の古民芸の調査研究と紹介に献身され、特に牛ノ戸焼をはじめ陶器、木工、染織、和紙等の製作工人の援助、育成、指導に努めるとともに昭和7年「たくみ工芸店」を創設して郷土民芸品を紹介し、また同24年には「鳥取民芸館」を創設し、民芸品を展示して真の民芸美術の鑑賞と啓発に努めるなど文化財の保護・民芸の保護育成を通じ鳥取市の文化の進展に貢献された。

名誉市民章第9号(平成元年9月26日議決)

井植いうえ歳男としお(/明治35年12月28日生/昭和44年7月16日没/)

三洋電機(株)取締役社長を歴任するかたわら、鳥取市が企業誘致による雇用の拡大と安定に資するため進めてきた生産都市建設構想に呼応し、本市への企業進出を英断し、鳥取三洋電機(株)設立に尽力され初代社長に就任した。以来、地場企業の育成と技術水準の高揚に寄与し、県下一の大企業に成長させ、市勢の発展に多大な貢献をされた。

名誉市民章第10号(平成21年9月16日議決)

古田ふるたさだ(/明治2年7月28日生/大正11年10月18日没/)

明治33年鳥取市掛出町の自宅を開放して「裁縫塾」を開設し、家庭に役立つ良妻賢母の養成に努め、裁縫を中心としながらも、女子に必要な技芸全般を教えるとともに、社会に出てからも立派な女性たらしめたいという教育方針をもって教育実践にあたられた。

また、生徒の支援に努力し、奨励のために私費を投じることもあり、生徒の教育振興に尽力された。

明治38年県の許可を得て正式に「鳥取裁縫女学校」(現鳥取敬愛高等学校)を開校し、初代校長に就任された。婦徳の養成を目指した教育理念は、多くの有能な人材を世に送り出し、女子教育の先駆者として、鳥取市の発展に貢献された。

名誉市民章第11号(平成21年9月16日議決)

岡野おかの貞一ていいち(/明治11年2月16日生/昭和16年12月29日没/)

鳥取市古市に生まれる。高等小学校の時代には、教会に通って賛美歌を歌い、演奏されるオルガンに親しんだ。

明治29年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学、同校教授として昭和7年に退官するまでの間、音楽教育の指導者の育成に努めた。

また、氏は文部省唱歌の編さん委員として、「春が来た」「紅葉」「春の小川」「おぼろ月夜」「故郷」等多くの唱歌を作曲された。

日本人なら誰でも知っている同氏の代表曲「故郷」は、日本中で歌われている名曲であり、「童謡・唱歌のふるさと鳥取」の知名度を高め、童謡・唱歌の普及に大きく寄与し、鳥取市の文化振興の向上に貢献された。

名誉市民章第12号(平成21年9月16日議決)

遠山とおやま正瑛せいえい(/明治39年12月14日生/平成16年2月27日没/)

鳥取大学農学部教授を退官されるまでの間、砂地農業の研究を続け、スプリンクラーの導入などにより長芋、スイカなど収益性の高い作物の作付面積が大きく伸び、鳥取市の砂丘地農業振興に大きく貢献された。

以来、鳥取大学乾燥地研究センターなど日本における乾燥地研究の基礎を築かれ、鳥取を乾燥地研究の拠点としてならしめるなど、乾燥地農業研究に大きく寄与された。

退官後は、中国の沙漠緑化の研究に取り組み、中国内蒙古自治区の300万本を超えるポプラ植林による沙漠緑化は中国で高く評価され、鳥取市の国際交流の発展に貢献された。

名誉市民章第13号(令和4年3月18日議決)

德田とくだ平市へいいち(/明治14年1月28日生/昭和19年6月14日没/)

大正デモクラシーの流れの中で、郷土百年の繁栄を人材の養成に求め、大正10年15万円に上る新設中学校建設費の全額を寄付し、多くの鳥取市民の教育就学の機会をつくるとともに、生涯にわたる育英事業の振興により、鳥取市の発展に大きく貢献された。

また、大正から昭和初期にかけて「角輪組」を創設し、大小100の漁場を経営、日本の水産業の発展に寄与された。

名誉市民

 種別なし

(平成2年1月1日施行)

体系情報
第1編 規/第3章 名誉市民・表彰
沿革情報
種別なし