東方宿と言えば、先ず「?:てい」宿。現在の星座で言えば「てんびん座」で、その主星αが基準です。古代のギリシャ人はこのてんびん座をさそり座の一部としてさそりのハサミと見たようで、てんびん座となったのは紀元前1世紀頃と言われています。星の並びから感じる山形になった3個の星はあたかも天秤を連想させてくれます。これら一群の星をてんびん座と名付けたのは、当時この星座に秋分の日の太陽があったのだと言われています。秋分は、秋の昼夜平分の日。昼と夜の長さが等しくなる日なので、天秤も平衡を保っていると考えたのでしょう。さらに、この星座は紀元前1世紀頃にはさそり座の一部であって、さらに西側にあるおとめ座の正義の女神アストラエアの持つ、人の運命を決めたり、正邪を測る天秤とも考えられていました。
中国の星宿が考えられたのはいつ頃だったのでしょう。その起源についてはまだ諸説紛々として結論は出ていませんが、遅くとも春秋時代にはすでに成立していたとされています。この春秋時代とは、古代中国の魯(ろ)の年代記「春秋」に記載された時代のことで、中国東周の前期紀元前770年から紀元前403年に戦国時代が始まるまでの時代のことで、その後の春秋戦国が始まるまでの時代を指します。
さて、古代中国の春秋時代にはすでに成立していたと考えられる星宿。いま、仮に紀元前8世紀の成立と考えると、この当時の秋分点はてんびん座にあったことになります。
この星宿を元に、中国では暦が考えられて作られたのでしょう。その原点は先ほどの基準の星達だったでしょう。こうして、古代中国の人は、1年の長さを求め365日と4分の1を得たのでした。皆さんは、円の周囲は360度と教えられましたね。現在はヨーロッパから移入されたこの360度と言う値が世界中で使用されていますが、古代中国で測られた1年の長さ、これは太陽が天球、ここでは黄道を一周する時間の長さですから当然ながら円の周囲に他なりません。そして、この値365.25がそのまま円周を示し365.25度とされました。旧い中国の星図に付けられている目盛りが365.25なのはこのような経緯によるもので、古代中国の天体観測の精度が如何に高かったかを教えて呉れています。
ここで、60進法について考えて見るのも面白いでしょう。先ずは、貴方の干支は?ときかれた時に応えるのは十二支ですね。この十二支と共に使われるのが十干。あわせて十干十二支と呼びます。十二支のルーツは、一年間の月の満ち欠けの数。当然12ですね。次は十干。これは私たちの手足の指の数でそれぞれ10本。これの組み合わせで年を数えます。昔の暦にはこの干支が年ごと、日ごとに書かれていて60回で元に戻ります。つまり60回(年、月)が巡ると、還暦。元の干支に戻ります。あの人は還暦になった、と言うときは満60歳になったと言うわけですね。
ところで、時計や分度器の目盛りは60目盛り。そしていずれもが同じように度、分、秒で呼ばれませんか。そうですね。これは何故でしょう。60づつをまとめた表記法と言ってしまえば簡単でしょうが、これも干支と同じように考えることができます。手足の指の数は10、一年の長さは12ヶ月。この双方の数の最小公倍数は60。人間の知恵の素晴らしさを見せつけられるような気がします。
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