天文セミナー 第161回

『佐治の夜空を見てみよう!』



5.星にも親があった!

 宇宙の中の生物には、総て親がありますね。私達も親の命を受け継いで次の世代に引き渡す責任があります。では、宇宙では如何なのでしょう。親があることが一般の常識なのできっと星にも親があるに違いないと、多くの人が考えます。
 太陽は我われの地球の親だと言われていますが本当なのでしょうか。私達の家には、代々の人の繋がりを書いた家系図が残されていることがあり、親、親の親・・・・と繋がりを知ることができますね。また、苗字が同じならルーツも同じと考えることもできます。では、これと同じように地球のルーツは?と考え始めたのです。19世紀の始め頃のことです。それまで天文学の主流だった天体力学に天体の物理を知ろうという学問、即ち天体物理学が加わったのでした。生物の繋がりを教えるのが最近の医学で用いられるDNA判定ですね。これと同じように、天体のDNAとも言うような物理量が研究の対象になって来たのです。太陽で初めて見つかった元素がヘリウムと名付けられたのは太陽をギリシャ語でヘリオスと呼んでいたからです。このヘリウムも現在では、地球にごく普通に知られる元素(ガス)ですが、このような元素探しが太陽系の惑星で始められたのでした。
 1970年代の初め、私は開設したばかりの東京天文台木曽観測所の105cmシュミット望遠鏡で、太陽系の生成の謎を解く一つの手立てとして小惑星の全天の分布を調べる観測と研究を行っていました。ある夜、一人で望遠鏡を操作しながら星と対話をしていました。そして、無数といわれる星の数と私の親の数を比較し始めていました。シュミット望遠鏡で写される1枚の写真乾板には当時使われていた大型のコンピュータの磁気テープ20巻分のデータが取得されています。そして、私には両親がいます。その両親にも同じように両親があります。こうして、30世代遡ると私に繋がる親の数は、何と10億人。2の30乗でした。私が今、ここに生きているのは先祖代々引き続いた命の証だと気付いたのです。こう考えると、星の数も親の数もほとんど無限となって来ました。DNAの、遺伝子の引継ぎと継続です。
 さて、現在では太陽に見つからないような元素は惑星には見つかっていません。このことから太陽のDNAと惑星のDNAは一致していると判断することができて、太陽系の惑星の親は太陽であることが判りました。医学のDNA判定も大変な努力を必要とし、若し判定に間違いがあると大変な問題を引き起こすことになり裁判の判決も覆されるようなことになりかねません。天体のDNA、つまり元素の数と量の観測も並大抵の努力ではありません。不安定な地球の大気を通過して到着した微弱な星の光に込められたメッセージを読み解くのですから。このために、どうしても必要なのが暗くて安定した夜空なのです。
 現在の国立天文台は、本部が東京都三鷹市にありますが以前は東京の都心・港区麻布飯倉にありました。大正時代、東京が大きく発展し灯火が観測の妨げになるようになり適地を見つけて移転することが考えられていました。そして、大正13年の関東大震災を契機に、現在の場所・三鷹市に移転してきたのでした。昭和になり、第二次世界大戦も終わったころ、天文学も一種の転機を迎えます。それまでの、天体の位置を基に研究する分野から、天体の物理量を追及する天体物理学へと進路を切り替えたのです。物理量を知るためには口径の大きな望遠鏡を必要とし、さらに暗い夜空を捜し求めることになったのです。
 先ず、188cmの大口径望遠鏡の設置場所として瀬戸内海沿岸の岡山県南部、中口径望遠鏡の設置場所としては東京に近い埼玉県の秩父地方、電波観測の適地として電波の雑音の少ない長野県野辺山付近、もっとも早く設置されたのは日本アルプス乗鞍岳山頂のコロナ観測所でした。さらに、木曽御岳の東南に口径105cmのシュミット望遠鏡が設置されました。さらに、日本をはじめ世界各国の天文学者の要望で建設されたのがアメリカ・ハワイのマウナ・ケア山頂の「すばる望遠鏡」でした。よく考えてみると、暗い夜空と安定した大気を求めての逃避行の連続が、天体観測所の歴史の一頁を飾っていて、そのいずれもが天体の親探しに繋がるとも言えるのではないでしょうか。結局、天文学は我われの親探しの連続だと言うことが判ってきたのです。佐治天文台で、我われの親星を見つける試みに参加しませんか!




2010年11月の星空

(ここをクリックすると大きな画像になります)
2010年11月の星空です
日没が随分と早くなり、夏の大三角が西の空低くになりました。
秋の四辺形がちょうど頭の真上に見えます。
木星が明るく輝いていますが、そのさらに低いところに
秋の星空唯一の1等星・フォーマルハウトが見えます。


次 回も、お楽しみに

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