第一回目は如何でしたでしょうか。今度は第二回目、何が見えるでしょう。そして、暗い夜空を眺めてみれば、そこには何があるでしょう。
皆さんが眺める夜空には、言わずと知れた「星」が見えるはずですね。ここで、光っているものを「星」、光っていないところを「闇」と名付けることにしましょう。昔、人々は「風」はどうして起きるのだろう、また風は何だろうと思いました。考えてみても、中々解決できません。目に見えない物についての理解が不十分だったからなのでした。今では、風は空気の移動だ、ということが判り、空気の移動は空気の重さ、つまり気圧に関係していることを知っています。そして、空気の重さを測る方法も知りました。目に見えない空気の存在を木や埃の舞い上がることで風として知ったのでした。皆さんのよく知っている台風は、周囲の空気に比べて軽い空気(低気圧)に向かって重い空気(高気圧)が流れ込んでいる現象だという事ですね。こうして、目に見えない空気の存在が確認できました。さて、私達は、目、鼻、口、耳、皮膚の5つの感覚、つまり視覚、嗅覚、味覚、聴覚、そして触覚といわれる感覚を持っていますね。いわゆる五感といわれる感覚で、物を認識します。中には、六感というインスピレーションが備わっていて物事を予知することができるという人もありますが。この五感で感じられないものは、本質的には無いと認識してしまいますが、先ほどの空気の話のように見えないものも存在することを知ったわけです。
さて、話を戻しましょう。夜空に光るものを「星」、光っていないところを「闇」と名付けましたが、この「闇」の場所には果たして「何も無い」のでしょうか。
1609年、イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイは自作の望遠鏡を夜空に向けました。そこには、まだ知られていない世界が展開していたのでした。月のクレータ、太陽の黒点、天の川の無数の星たち。このガリレオの活躍を記念して2009年が「世界天文年」とされて世界中で記念のイベントが繰り広げられたのは記憶に新しいことですね。
ガリレオの最大の貢献は「見えないところにも物がある」ことを発見したことでしょう。「闇=無」と思われていたのが「闇=無ではない」と、改めて認識されたのでした。こうした発見を基に、世間は「闇」の中にまだ認識されていない何かが存在することを知ったのでした。
1600年代は、科学のルネッサンスとも言われていますが、その背景にはそれまでのヨーロッパは宗教の強い束縛により中世の暗黒時代とも言われるような状態があったそうです。この束縛を取り払い、人間本来の考えに帰ろうよ!と言う動きが当時の都市国家が群立していたイタリアに起きたのでした。その考えは、イタリアの文化の源であるギリシャの文化を再び認識しようとするもので、日本語では「文芸復興」と呼ばれている活動です。復興と言われるからには基の姿が無くてはなりません。その姿を、ギリシャに求めたのでした。文芸復興=ルネッサンスの波は広くヨーロッパに伝播し、芸術、文芸等のそれまでの文化に限らず、自然をもっと深く見つめ理解しようという動きにまで広がりました。それまで自然は、神が創ったもので人間の立ち入ることのできない一種の聖域だったのでした。自然を見つめなおすことは、神の摂理に反することとして、当時のキリスト教会、言い換えるとローマのバチカンにある教王庁(法王庁)からは異端として見つめられてきたのでした。この、一種の迫害に抵抗して宗教裁判にかけられたのがガリレオで、ガリレオ裁判として知られている事実です。ガリレオは、400年近くを経過してやっと名誉を回復したのも記憶に新しい事柄ですね。世界天文年は2009年、つまり昨年でしたが今年2010年も同じように各地で多くのイベントが開催されます。佐治天文台の研究員もその一翼を担って活動しています。
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