天文セミナー 第156回
『日本の民間天文台(Y)大望遠鏡時代』『日本の天文アマチュア の活躍(Y)天体写真の先駆け』
日本の天文観測施設が大望遠鏡を設置し、いわゆる大望遠鏡時代が始まったのは、当時の東京天文台長・萩原雄祐先生が提
唱された岡山天体物理観測所と堂平山観測所が東京天文台の付属観測所として創設された頃からでしょう。それまでの最大口径の望遠鏡と言えば、東京天文台の
26吋(65cm)屈折望遠鏡でした。10mを超える長大な焦点距離を持つ望遠鏡で、建設当時の世界の天文学の主流であった位置観測が主な目的でした。
1930年代の特異小惑星エロスの地球接近に際して、長大な焦点距離を利用した精密位置観測が行われましたが、特長である長大な焦点距離、言い換えると長
大な望遠鏡の筒がその支点を中心に撓むというアクシデントに見舞われ、その補正に苦労した、と記録に記述されていますが、この望遠鏡は何しろ東京天文台の
シンボルでした。 |
私が在職していた頃の東京天文台に、「射場観測所」と言うラベルが貼られた星図があり
ました。星図とは、星の位置を書き示した図で、言うまでもなく恒星の位置の精密観測が基本であり、天体観測の必需品です。当時、もっとも高い精度とスケー
ルの大きいことで知られていたのがボン星図とコルドバ星図でした。共に同じスケールで書かれ、ボン星図の極限等級は9乃至(ないし)10等級、コルドバ星
図は9.5等級と言われていました。出版されたのはボン星図が1863年と1887年、コルドバ星図は1929年で、それぞれ基準になる元期は1855年
と1875年。この星図の前の持ち主が、神戸在住のアマチュア天体写真家・射場保昭氏だったのです。東京天文台は1945年に火災に遭い、資料の多くを焼
失しました。この資料を補うため、アマチュアの方々の応援を依頼し、そしてその中にこの射場氏の星図が含まれていたのでしょう。この星図のお陰で、当時最
も活躍していたブラッシャー天体写真儀で撮影した乾板上で小惑星などの検出に大いに役立ったのでした。写真乾板とこの星図のスケールが殆ど同じだったこと
も好都合だったのでした。射場氏は、日本のアマチュア天体写真家の中でも突出した存在で多くの写真を残され、日本天文学会の機関紙「天文月報」に「望遠鏡
並びに天体写真に関する私見」と題した論文を1934年に掲載されています。まさしく、日本のアマチュア天体写真家の先駆けだった人でした。 |
2010年6月の星空 (ここをクリックすると大きな画像になります) |
次 回も、お楽しみに |