天文セミナー 第154回
『日本の民間天文台(W)個人天文台』『日本の天文アマチュアの活躍(W)関西の人』
日本にアマチュア天文家が誕生すると、個人的に観測機器を所有し天体の美しさを実際に体験し、さらには何か具体的に天文学に貢献したいと思う人がだんだん
と増えてきます。こうした背景の下に、当時の資産家や天文の魅力に引き込まれた人たちが個人の観測所、個人天文台を作り始めることになります。専門的な機
材をもった本格的な観測所から、移動式望遠鏡を持ち出しての観測・観望まで、各人各様のスタイルであったことは当然のことです。初期の観測者は、小口径の
屈折望遠鏡や反射望遠鏡を必要に応じて適地に運び手動で星を追尾しながらの観測でした。特に、新天体の捜索を試みる人は広範囲の夜空を効果的に捜索する必
要があり、また明るさの変わる変光星を観測する人は明るさを比較するための比較星が同じ視野に見えることが必要です。望遠鏡の価格が高く、手作りの望遠鏡
に望みを託したのです。光学系、つまりレンズや反射鏡を供給する光学会社に足を運び、目的の部品を探し、近くの鉄工所に機械加工を依頼しての製作です。十
分な性能を期待することは所詮無理と言うものです。それでも、一応完成すると視野の中に静かに輝く天体の姿に、うっとりと我を忘れる、忘我の境地に浸るの
でした。このような思いで完成した望遠鏡で近くの人を招き観望会を開いたり、自分の興味のある天体を観測したり、星三昧の時を過ごすのです。個人による、
天文の普及・啓蒙活動です。 |
東亜天文学会のお膝元に近い兵庫県には、多くのアマチュアが活躍しました。この人たちの中には、関西経済界で活躍する人も多く、特に1930年代には観測
面で多くの記録が残されています。私の、おぼろげな印象では、兵庫県宝塚の近くの雲雀ケ丘に観測所を設けられていた伊達英太郎氏を先ず思い出します。火星
の接近に際しては見事なスケッチを採られ、またその他の天文現象にも貪欲に向かわれたのでした。大阪心斎橋に、ご自身の経営される商店があり、その前を
「ここがあの伊達さんの・・・」と思いながら通り過ぎたことを思い出します。そして、私が東京天文台に勤務するようになった頃、子午環観測室の南の木立の
中に、通称「伊達テレ」と呼ばれるバラックの建物があり、その中に本当の「伊達テレ(口径26cm反射赤道儀)」が収められていたのです。東京天文台に何
故伊達英太郎氏が所有されていた望遠鏡があるのか不思議に思ったのでしたが、伊達氏が亡くなる(1953年8月1日)前に寄贈されたのか、東京天文台が購
入したのか不明のままでした。この望遠鏡が、その後仙台の東北大学天文学教室に移籍され、戦災で失われた大学の観測機材を補うことになったのです。この、
通称「伊達テレ」のバラックは、機材が移籍された後にも可搬式30cm反射望遠鏡が収められ、この30cm望遠鏡は月面の等縁掩蔽観測に使われて来まし
た。等縁掩蔽観測とは、恒星が月によって覆い隠されるとき、月の同じ縁に隠される場所を地図上に求めて行う観測で、月の縁にある凹凸(山と谷)の影響をな
くして地図上で求めた地点間の距離を正確に求めようとする測地学の要請に依るものでした。 |
2010年4月の星空 (ここをクリックすると大きな画像になります) |
次回も、お楽しみに |