民謡「貝がら節」更新日:
貝殻節は、砂丘の裾に湧く温泉浜村に伝わる海の代表的な民謡である。いつごろ誕生した唄なのか定かではないが、漁夫の作業唄として古くから根付いていた唄である。
くる日も、くる日もジョレン(馬鍬用の漁具)に網をつけた舟で底曳きする櫓こぎは実につらい重労働であった。しかも、そうした日々の単調さと過労に耐えねばならなかった漁夫たちの魂をゆすぶって愛誦され伝承されただけに、この唄には海の豪快さとともに哀調切々たるメロディがあり、日本海の潮の香りと彼らの生活が唄全体にあふれている。
貝殻節の歴史
その昔、この地方を中心に日本海沿岸数十キロにわたり、海底一面といってよいほど板屋貝(帆立貝)が発生したことがあった。貝殻節は、当時この貝の捕獲にあたった漁夫たちが、舟歌として櫓に合わせて歌った作業唄である。
帆立貝がこの周辺の沿岸に発生した最も古い時代のことはわからないが、文献の上では文政7年(1824)「10万斤の乾身が輸出された」のをはじめ、天保7・8年(1836~7)に「60万斤」、安政元年(1854)から数年間大量発生したことが記録されている。明治以後では、同4年(1871)に県下一円の沖合いに大発生したのをはじめ、同10年(1877)、同21年と22年(1888~9)、同34年と35年(1901~2)に発生し、大正14年と昭和4年にも大量に発生している。最も漁獲の多かったのは、天保7年と明治4年、そして同34年、大正14年、昭和4年でだいたい10年、30年、50年目といったように周期的に大量発生の記録をたどっている。地元では、この年を「カイガラ年」と呼んでおり、東は岩美郡福部村の岩戸辺から西は赤崎・御来屋の沖合いまでと、その発生地域は県下全域にわたり、年によっては浜村沖を中心に、そして泊沖、賀露沖と時代によって変わっている。そのためであろうか、貝殻節を歌うのにも土地によって、例えば賀露では「賀露の沖から」と歌い、青谷の人は「青谷沖から」と歌うのもあながち郷土贔屓のみではなく、この間の消息を物語るものといってよいであろう。
貝殻節の歌の起源は、いつごろから歌われだしたか明らかでない。文献に記録されるまでにも帆立貝は漁獲されたかもしれないし、それが乾身に加工されて輸出されたのが文政年間であれば、少なくともそのころから歌われていたとみてもよいであろう。これの起源となるか定かでないが、鳥取市賀露神社の古文書に、それは今から約1300年前に遣唐使吉備真備が帰朝の途次に遭難したとき、賀露浦の若者たちが向う鉢巻で八丁櫓の船を仕立て救助に赴いたときの掛け声が、「ホーエンヤ、ホーエヤエーエ、ヨヤサノサッエ」という木遣りの囃し言葉だったと伝えているから、既にそのころからこのような囃言葉があったとすればメロディはもっと古く、100年や200年前のものではなく、古く古代にさかのぼるかもしれない。いずれにしても、この唄は漁夫たちの生活の中から生まれ、生活に溶け込んで愛唱され、伝承された労働唄には間違いない。
しかし、帆立貝もいつしかとれなくなると、貝殻節もわずかに「ブリ網」漁法の舟唄としてのみその命脈をつないでいたが、さらに手澑ぎの船は発動機船に変わり、以前の重労働から解放されたためか、ほとんど忘れられるに至った。昭和7年、浜村温泉小唄(作詞 松本穣葉子・作曲 三上留吉)が新しくつくられたのを機会に、郷土の作曲家 三上留吉の採譜により、本町浜村出身の松本穣葉子が新しく作詞し、翌8年2月レコードになったのを機に浜村温泉の代表民謡として普及した。そして昭和27年朝日放送全国民謡大会で第一位となり全国にしられるようになった。その後も全国芸能祭りなど芸能大会にもしばしば選抜されて、素朴な貝がら節踊りとともに今日では郷土を代表する民謡として三弦にのせて歌われ、山陰路を訪れる観光客の旅情を慰めている。
- 何の因果で 貝殻漕ぎなろうた
カワイヤノー カワイヤノー
色は黒うなる 身はやせる
ヤサ ホーエーヤ ホーエヤエーエ
ヨイヤサノサッサ
ヤンサノエーエ ヨイヤサノサッサ
(以下、はやし略)
- 浜村沖から 貝殻がまねく
かか(女房)よまま(飯)たけ 出にゃならぬ
- 戻る舟路にゃ 櫓櫂がいさむ
いとし妻子が まつほどに
- 小さい時から 貝殻漕ぎなろうて
今じゃ舵とり とも櫓とり
- 海は荒波 浜村そだち
男度胸なら ひけとらぬ
- 忘れられよか 情もあつい
あの娘浜村 お湯そだち
貝がら節踊り
昭和8年2月、レコード化をきっかけに大阪の藤間章郎により振り付けられたのが最初で、海で働く姿にふさわしかったというが、日中戦争から太平洋戦争にかけていつしか忘れられていた。
戦後の昭和22年、浜村に疎開中の野村静子が再び振り付けを行い、観光客でも踊れるようにアレンジし、これに浜村出身で大阪の山村流の田中笑香が修正を加え、「正調貝殻節踊り」ができた。物資不足の折、振袖が手に入らず、労働歌の踊りに向く、かすりの模様と色彩はちょうどその時浜村駅前の辰元旅館で病気療養中の日本画家中島菜刀のものが採用された。
貝殻節の歌とともに、この踊りが全国に広く知られるようになったのは、昭和27年の朝日放送開局一周年記念行事に行われた全国民謡コンクールで第一位に入賞してからであった。
(昭和52年6月発行『気高町誌』、平成18年12月発行『新修気高町誌』より抜粋)
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