鳥取市

プラザ佐治(豪雪山村開発総合センター)更新日:

プラザ佐治

2021年7月撮影  

豪雪山村開発総合センターとは

 豪雪山村開発総合センターとは、経済企画庁(当時)が昭和42年(1967年)から同45年(1970年)にかけて豪雪の山村を対象に指定した全国10か所の町村に建てられた施設です。高度成長とともに山間へき地での人口減少が加速し、過疎化が社会問題となっていた当時、国の過疎対策の一環として経済企画庁が企画したのがこの豪雪山村開発総合センター建設構想です。豪雪山村開発総合センターの機能には次のようなものがありました。

1.産業教育の実施 農林業の経営・生産技術の研修・講習
2.生活改善の推進 生活技術の改善・講習・実習
3.社会教育の実施 各種講座、文化活動、レクリエーション、資料展示、式典開催
4.保健福祉の増進 保健指導、集団健診
5.社会福祉の増進 保養、娯楽、各種行政相談
6.その他     宿泊機能

 こうしたさまざまな機能を有する総合的なセンターを設置し、産業の振興や住民生活の向上を図ることにより豪雪山村の過疎化に歯止めをかけようとしたのです。

佐治における当時の状況

 佐治村(当時)は西は岡山県、東は八頭郡用瀬町(現鳥取市用瀬町)と接し、南北に1,000メートル級の山に挟まれた西高東低の急峻な渓谷地帯で、佐治川に沿って集落を形成する東西に細長い村です。降雪期間は12月から3月、そのほとんどが根雪期間で、冬期は村でただひとつの公共交通機関であるバスが不通になったり、奥の集落が孤立状態になったりしました。

 昭和40年(1965年)の佐治村の人口は4,461人で同35年(1960年)と比べて10.5%減少しました。佐治村の人口減少は昭和30年以降の高度成長の過程で急激となり、過疎化が進みました。

 こうした厳しい自然的・社会的条件の中で産業の振興を図り、文化的社会的環境の遅れを取り戻し、住民の福祉の増進を図るため、豪雪山村開発総合センター建設計画が生まれました。

豪雪山村開発総合センターの建設

 豪雪山村開発総合センターの建設が認められる条件は次のようなものでした。

1.山村振興法の規定により振興山村に指定された地域であること
2.豪雪地帯対策特別措置法の規定により豪雪地帯に指定されていること
3.相当規模の人口を有していること
4.都市的機能の恩恵に浴することが困難であること

 これらの条件を満たす佐治村は前述した村の課題解決のため、昭和43年(1968年)3月、国及び県に対して豪雪山村開発総合センターの建設を申請し、昭和44年(1969年)5月に建設が認められました。

 設計は安田臣(やすだかたし)建築設計事務所に依頼し、工事施工は(株)熊谷組広島支店と契約しました。

安田臣(やすだかたし)について

 戦後日本を代表する建築家のひとりである安田臣氏は明治44年(1911年)、島根県邑智郡日貫村(現邑南町)に生まれ、島根県立浜田中学校(現島根県立浜田高等学校)を経て、昭和12年(1937年)に早稲田大学理工学部建築学科を卒業しました。卒業後は民間の建設会社に就職し、昭和16年(1941年)5月から住宅営団技師として東京・広島の支所に勤めました。
 戦後は特別調達庁呉局技術部清算課長と広島女子専門学校(のちの県立広島女子大学、現県立広島大学)の講師を併任。昭和27年(1952年)からは建設省に移り、営繕局建築課建設専門官、九州地方建設局営繕部長を経て、昭和37年(1962年)営繕局監督課長に就任しました。昭和38年(1963年)に建設省を退官して、東京都港区赤坂に安田臣建設設計事務所を開設しました。

 建設省時代に関わった建築物として、住宅金融公庫本支店庁舎、地方職員会館、島根県庁舎、大分県庁舎などがあります。
 安田臣建設設計事務所が手掛けた建築物は島根県民会館や各地の山村開発センターのほか、小中学校や公務員宿舎などの公共建築物が大部分を占めています。これは、安田氏が建設省出身であることが影響しているのでしょう。

 昭和52年(1977年)2月9日死去。享年67歳。

計画

 当初、建設予定地を佐治川北岸の佐治村大字福園字上原にしていました。ところが、用地取得が難航し、建設計画のタイムリミットが迫っていたこともあり、同地での建設を断念し、建設予定地を佐治川南岸の佐治村大字加瀬木字東下モ河原に急遽変更しました。

当所配置図 第2次案
第1次計画案 第2次計画案

 

 第2次計画案で選定した敷地は決して条件の良いところではありませんでした。中央に県道が走り、北側に梨の選果場、南側は勾配のある畑地と山林があり、安田臣氏が「このような処にセンターを建造するのかといささか落胆気味でもあった」と語ったほどでした。しかし、梨の選果場を移築し、建設予定地を横切って敷地を分断していた県道を佐治川岸辺に付け替えて敷地を一体化するなどして建設環境を整えていきました。安田氏も「与えられた条件に適合することが私たちの重要な仕事」であると思い直して設計に取り組み、敷地の北側に役場棟、南側にセンター棟を設置し、中央に広場を設けました。
 建物は地形に合わせて”くの字型”に曲がり、山の勾配に合わせて外壁に傾斜をかけています。これにより、人々の視線は自然と空へと向かいます。中央広場には敷地の東西から歩行者が集まり、広場からセンター棟のアーケードに到達し、このアーケードから各部屋に出入りします。広場とアーケードの間には4~5段の段差があり、この階段が広場で催物に絶好のスタンドとなります。役場棟も”くの字型”に変え、中央広場を引き立てました。設計者である安田氏はこの広場に人々が自由に集まり、出会い、語り、噂をし、自然に情報を得られることを願って設計しました。

竣工

 昭和44年(1969年)11月29日に着工し、昭和45年(1970年)10月31日、佐治村豪雪山村開発総合センターが竣工(役場棟は昭和46年6月30日竣工)。「プラザ佐治」の愛称が付けられました。

プラザ佐治
竣工時のプラザ佐治
竣工図
竣工図(「豪雪山村開発総合センタープラザ佐治」より)

 

現在

 多彩な機能を持ったプラザ佐治は長く村民に利用されてきましたが、完成から50年以上が経過して建物が老朽化した現在、プラザ佐治が使用されることはなくなりました。
 しかし、平成8年度に「県民の建物百選」に選ばれたプラザ佐治は佐治町のシンボル的存在であり、いまでも町民に愛されています。
 また、建築ファンがプラザ佐治を見学している様子を時折見かけることがあります。

写真ギャラリー

 

<参考文献>
鳥取県八頭郡佐治村「佐治村豪雪山村開発総合センター建設計画概要書」
鳥取県八頭郡佐治村「豪雪山村開発総合センタープラザ佐治」
「新建築」昭和46年9月号(新建築社)
藤木竜也「安田臣の経歴と設計作品について」(日本建築学会「日本建築学会中国支部研究報告集」第37巻収録)

このページに関するお問い合わせ先

佐治町総合支所 地域振興課
電話番号:0858-71-1912
FAX番号:0858-89-1552

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